2008年1月HP、急性骨髄性白血病、闘病の記録


 2007年6月末から1ヶ月の予定で北海道の網走と中標津に長期滞在を予定していました。一旦は網走に出かけましたが、着いてすぐに妻の体調が悪くなり、網走厚生病院で診察をうけました。
 それからが大変でした。本当に色々なことがありました。その時から妻・初枝は、長く辛い闘病生活を余儀無くされました。2008年1月1日現在、彼女は今なお無菌室で最後の治療を受けています。

 このページでは、病気の発見から入院、そして治療の推移を急性骨髄性白血病闘病の記録としてご紹介したいと思います。
 同じ病で辛い治療を受けようとしている多くの人々。その気持ちは、とても不安だと思います。そんな患者の皆さんに、少しでも参考になるのではないかと考え、闘病記を書きたいと思います。そして、この記事に書きました、これまでお世話になりました素晴らしい方々に感謝の気持ちを込めて書きたいと思います。


作成日 2008年1月
Produced by Masaharu Kawamura (川村正春、初枝、茶トラのチャーチャ)




急性骨髄性白血病、闘病の記録(その1:6月7月)

(個人情報保護法により個人名は省略させて頂いています)

2007年6月22日(金)  


 この日は、本当に忘れることができない日になりました。でも、その前に6月初めの頃の事を書きます。

 網走に出発する以前の2週間ほど前から初枝の体調が思わしくありませんでした。熱が高くなるという症状。家の近所の病院には何回も診断を受け、かぜ薬や抗生物質、解熱剤などの内服薬を処方してもらいました。解熱剤が非常に効果的。39度もある体温が解熱剤を服用すると、たちまち平温に戻るのです。

 北海道に出かけるべきか、かなり迷いましたが、出かける直前の診断では、やはり風邪だろうということ。流行の風邪は高熱になるとのこと。最初は食事も出来ない状態でしたが、そのころは、何とか食べることができるようになったし、北海道ではのんびり過すことが目的。向うでも病院はあるということで、フェリーに乗ることにしました。

 今回の滞在は網走市役所主催の5日間体験移住コースと中標津町が紹介してくれた施設、裏摩周の近くにある養老牛温泉に3週間滞在、その他の宿泊も含め1ヶ月間の予定。東京の梅雨を回避して爽やかな北海道を体験したい。

 6月18日に自宅を車で出発して、大洗からフェリー、翌19日に苫小牧到着。途中で旭川に1泊。20日に網走入りをしました。20日は市役所の人達が歓迎パーティをしてくれました。とても楽しくて、美味しい海の幸もテーブルいっぱい。21日は、市内見学と地元料理の体験。ここまでは、初枝も大丈夫でした。

 しかし、その晩に解熱剤を使っても熱が下がらない。食事も全くできない。翌22日が金曜日なので、この日を逃すと週末なので病院で診てもらうことができなくなる。

 そして6月22日朝一番、市役所の人に謝って、網走で一番大きな網走厚生病院に出かけました。午前中に診察を受け、その後、色々な検査を受けました。お昼になって担当のK先生から家族に話があるというので、「かなり重い病なのか」と、ちょっと聞くのが怖い。

 先生が言われるには、所見としては胆嚢炎。それもかなり重い。最低でも2週間の入院が必要。1ヶ月くらいは、みていた方が良いと。すぐに入院手続きをすること。血液検査の結果、白血球が極めて少ない。特に好中球が全くない状態。詳細に調べてみなくてはならないが、血液の病気の疑いもあるとのこと。

 血液の病気といっても何のことかわからないし、好中球が何なのかも、その時の私には理解できませんでした。とにかく1ヶ月入院しなくてはならないと言うことの方が重大事でした。

 前の日に長期滞在マンションの見学をしていたので、午後、病院に様子を見に来てくれた市役所のT課長にそのマンションを1ヶ月間借りる手配をお願いしました。そして、中標津町に事情を話し、全ての予約をキャンセル。会社時代の友人の実家がホテル経営をしていて、そこにも宿泊することを楽しみにしていましたが、それもキャンセル。

 網走厚生病院は新しい高層の建物。病棟もゆったりしていて景色が極めていい。網走の町全体が見渡され、オホーツク海と知床半島まで見ることが出来る。どちらにしろ1ヶ月間北海道に滞在予定なので、ちょっと場所が違うだけ。と、その時は思っていました。慌ただしく午後を過し、もうその日は、やることがなくなり、夜になったので宿泊先のホテルに帰ろうと車を運転している時でした。携帯がなり電話に出てみると、再び医者からの話があるので至急、病院に戻ってほしいとのこと。病院に戻って、ナースセンターで、初枝と共にK先生の話を聞きました。

 そこで初めて、白血病の疑いがあると聞かされました。午後7時を過ぎていたでしょうか。白血病の診断を確定するため、骨髄検査をする必要があるとのこと。危険な検査のため、患者のサインが必要であるとのこと。病棟も個室に移されていました。すぐに骨髄採取が行われました。多くの医師や看護士が病室に入って、ものものしい。患者もすごく痛いらしい。まもなく無事終了しましたが、初枝は血小板も少なくなっていて出血がなかなか止まらない。その場でプレパラートを作られて、顕微鏡検査が行われました。その結果、白血病細胞が検出されたようです。

 困ったことに、網走厚生病院には白血病の治療設備がないとのこと。すぐに自宅近辺の横浜周辺の病院を探してもらいました。しかし、どこも設備がないか或いはベッドがあいていないとのこと。北海道には札幌の北大病院にしか治療設備がないそうです。K先生は教授を知っているので紹介はできるとのこと。でも、長期間、北海道にいるわけにはいかないので何とか横浜に戻りたい。

 すぐに考えたのは、学生時代の友人で慈恵医大の医者になっているT君がいるので、彼に電話して何とか頼めないかということ。もう夜9時を過ぎている。彼がつかまれば良いが。祈るような気持ちでした。

 私はいろいろな所に長期滞在するために友人や親戚の連絡先をインターネット上にファイルしています。これだと、世界中の何処にいても誰にでも連絡が取れます。ナースステーションでインターネットを使わせてもらって、電話をする。本当にラッキーなことに、彼がちょうど帰宅したところでした。すごく驚いていましたが、すぐに対応してみるとのこと。30分くらいして彼から電話がかかる。血液内科の責任者に連絡をして無菌室を確保したから、すぐに戻って来いと言う。もう夜の10時を過ぎていました。

 朝一番の飛行機を予約。市役所のT課長に連絡して、マンションをキャンセル。明朝、T課長が女満別空港まで送ってくれると言う。K先生に検査データを友人のところにファックスしてもらう。彼女はこんな夜遅くまで残って、初枝のための仕事をしてくれた。

 私は病気を知ってショックを受けると言うよりは、やるべきことがたくさんあって、本当に慌ただしく、忘れごとがないようにするだけだった。あとは病院の皆さんにお願いして、私は宿に帰って荷造り。一人になると、これからどうなるのだろうと考えてしまう。でも、とにかく東京に帰って、専門医に任せるしかない。

 昔は不治の病だった白血病。でも、最近は完治している人もいる。タレントで復活して元気な人もいる。でも本田美奈子さんが亡くなったのは、そんな昔ではない。

 とにかく眠らなくちゃ。私が倒れては、初枝を看病することが出来なくなってしまう。


6月23日(土)

 朝、病院に出かけていくと、夕べ採取した骨髄のプレパラートが、きちんと用意されていて私が東京に持っていけるようになっていた。本当にK先生に感謝。

 私の車は病院の駐車場においておく。とにかく初枝を飛行機で東京に連れて帰るのが先決。東京に帰って、しばらくしたら車を取りに来るので、それまで駐車させてもらうことを病院の人にお願いした。でも、その朝、病院に来てくれた市役所のT課長が、個人的に運送会社にお願いして陸送ができるかどうか確認してくれると言ってくれた。もう、全て人の親切に甘えるしかない。

 初枝の病状は、発熱、嘔吐など、もう歩くことも出来ない状態だった。前の日、胆嚢炎という診断で入院しなくてはならないと言われたとき、初枝は横浜に戻りたいとK先生に言ったが、命を落とす可能性があるといわれた。だからK先生は、無事に東京に戻れるかどうかを本当に心配してくれた。

 とにかく病院を出発する直前まで点滴をしてもらい、途中は内服薬で対応することにして、T課長に空港まで送ってもらった。その日の早朝、航空会社に車椅子の手配をしてもらうことをお願いしてあったので空港での対応は非常に良かった。ただ、航空会社は重体の患者さんは、他のお客様に迷惑がかかるので、旅客機には乗せてくれないらしい。今回は要領よく振舞ったので大丈夫だった。これは、ちょっとしたノウハウ。

 1時間半の飛行時間は本当に長く感じた。初枝はじっと我慢していた。羽田に着くと、車椅子の人は一番最後に降りなくてはならない。乗客全員がドアの外に出ると、係員の女性が車椅子をもってきてくれた。そのままタクシー乗場まで車椅子を押してくれて、やっとタクシーに乗ることが出来た。

 西新橋の慈恵医大に着いたのは、お昼を過ぎていた。とにかく無事に病院まで連れてくることが出来た。すぐに責任者のY医師と担当のM医師が初枝を診察。続いて、採血、尿検査、レントゲン、心電図、CT、赤血球と血小板の輸血などが行われる。胆嚢炎と胸水を併発していて腹痛と咳などの症状が出ている。輸血によるアレルギー反応で吐き気と息苦しさがある。夕方には急性骨髄性白血病と断定される。友人のT医師も駆けつけて来てくれ、専門の胆嚢炎についてアドバイスをしてくれた。

 その夜、Y医師とM医師から現在の状況とこれからの治療方針などの説明があった。

 白血病になる原因は分らない。だから予防をすることができないそうだ。ただし、病気の理屈は明確だそうだ。

 悪い白血病細胞が他の血球(赤血球、白血球、血小板)より長生きして増殖するので、急激に白血病細胞が増えて、赤血球や白血球、血小板が少なくなる。赤血球が少なくなると貧血。白血球、特にその中の細菌を殺す好中球がなくなると感染症になる。血小板が少なくなると血が止まらない。鼻血が出て止まらない。最後には血管は白血病細胞だらけになり命を落とす。
 治療は、抗がん剤によって白血病細胞を殺す。でも同時に全ての血球もなくなってしまう。それを防ぐ為に赤血球や血小板は随時輸血をする。好中球がなくなるので無菌室に入り、抗生物質を投与して感染症を防ぐ。
 一回の治療は抗がん剤投与が5〜7日。その後、全ての血球が減少してくる。3週間くらいすると今度は自分の造血作用によって、全ての正常血球が増加してくる。約1ヶ月すると血球が通常状態になる。この時、患者は一見元気な普通の状態に見える。外泊で自宅に戻ることも出来る。
 しかし、この1回の治療だけでは、白血病細胞が体の中から全てなくなるわけではない。このまま何もしないと、必ず、白血病細胞が増殖して又同じ悪い状態になってしまう。だから、最低でも4〜5回は、同じ様な治療を行う必要がある。一回の治療は1ヶ月以上かかるので、この病気は長期戦である。最初の治療を寛解導入と言う。寛解導入が成功して、ある程度まで白血病細胞がなくなったときを完全寛解という。完全寛解になると次の治療は地固め療法という。これは最低でも3回行う。以上が化学療法というものである。
 私は骨髄移植が白血病の最良の治療方法だと思っていた。しかし、骨髄移植治療は、この化学療法でも治療が進まないときに行うものだそうだ。なぜなら骨髄移植のほうが死亡率が高いため。もちろん、急性骨髄性白血病でもさまざまな種類があり、治療法方は一概には言えないが基本的な考えかたは同じである。
 抗がん剤には副作用がたくさんありとても辛い治療であること。抗がん剤も抗生剤も進化してきており昔と違い完治する可能性が高まっていること。だから、頑張って治療を受けてほしいと言われた。

 こうして、網走から東京まで移動した長かった一日が終ろうとしていた。私は夜遅く病院を後にして横浜の自宅に戻った。自宅までの道のりはとても辛かった。今までの生活が一変する。自分ひとりの生活がこれから始まる。寂しさ、孤独感をこの時初めて感じていた。家の事は初枝に任せたままだったので、これからは自分で何もかもやらなくてはならない。

 でも、こういう時こそ自分の気持ちをポジティブに持っていくことが大切だろうと自分に言い聞かせた。何とかなるに違いない。これも人生。一度は通らなくてはならない試練かもしれない。自分一人では出来ないことも、素晴らしい人々の協力によって、この2日間何とか切り抜けてきた。世の中に感謝しなければならない。


6月24日(日)

 自分の車は網走に置いてきているので、初枝の車で病院に行くことにした。病院に持っていく荷物もたくさんある。第三京浜を通り目黒通りを走っているときだった。突然車のエンジンが停止した。セルを回してもかすかな音をたてるだけ。目黒通りの中央車線で停止。

 外は小雨が降っている。ギアをパーキングに入れて外に出て、後の車に謝って誘導する。もう渋滞ができている。歩道の人は車を脇に寄せた方がいいよと言ってくれる。でもギアをパーキングに入れた後、フットブレーキを踏んでもギアがびくともしない。だから押しても車は動かない。もうJAFを呼ぶしかないと思った。JAFの電話番号が分からないので104で聞こうしたが、携帯ではかからない。近くの散髪屋のおじさんが外に出てきていたので電話を借りてJAFの電話番号を聞く。JAFに電話すると、今日は日曜日で雨なので、サービスカーが到着するまで1時間以上かかるという。でも、仕方がないのでお願いするしかない。

 近くで見ていたピザ屋の配達のお兄ちゃんが交番に行って警察官を呼んでくれた。すぐに警察官による交通整理が始まった。警察官はJAFを呼んだと言ったら、「まあ1時間半はみていた方がいいね」と言って笑って交通整理をしていている。

 散髪屋のおじさんが、看板を指差しながら、あそこにトヨタがあるので何とか頼んでみたらとアドバイスしてくれる。車は三菱車だけどサービスもいるので行ってみたらと。別の警察官もそれに気付いたらしく、トヨタに行こうとしていた。私も急いでその後に続く。トヨタの店長さんにお願いしてサービスマンと一緒に車のところに行く。サービスマンはギアをニュートラルに入れてくれた。これで車を押すことができる。店長さんと警察官と私で車を押してトヨタまで運ぶ。

 小雨の中、警察官が対向車線の車を止めて、私の車をUターンさせての大事だ。そのお陰で目黒通りは30分くらいで元に戻った。ほっとした私。店長さんは「大変だったね。」と言って、「車を見てもらう間、コーヒーでも飲んでゆっくりして下さい。」と言ってくれた。JAFをキャンセルしてから店長さんと話をしていた。私が今までのことを話していると、「それは大変ですね。もし良かったら自分用の車を使ってください。」と店長さんが言ってくれた。

 車の故障はジェネレーターが壊れていてバッテリーが充電されていなかったために起きたことだと判明。警告ランプが点いていただろうに。この日は、私も動揺していて、それに気が付かなかったのだ。店長さんの親切に甘えて車を借りて病院に行く。

 夕方、再びトヨタに戻り車を返す。再び店長さんと話をしていて、この数日、本当に色々なことがあったけれど、人の親切ということに感謝する気持ちで胸がいっぱいになってきた。初枝が重病になったり、車が故障したことは不幸なことだが、人々の親切に出会って、これからはきっと運が向いてくると感じた。それを店長さんに言うと、「何か協力できることがあったらいつでもどうぞ」と言ってくれた。

 私は、本当にその時、初枝は助かると感じたし、自分は、どんなことをしても、どんなにお金がかかっても初枝を助けたいと思った。


6月25日(月)

 採血、心臓エコー、歯科検診、骨髄採取(マルク)を行う。強い抗がん剤治療に先立って、体の悪いところを直しておかなければならない。

 中心静脈カテーテル(CV)を挿入。これは、首から静脈に心臓方向にカテーテルを15センチくらい挿入するもの。超音波によって挿入されているカテーテルを見ながら約1時間かけて少しずつ入れる。麻酔をするがとても痛いそうだ。治療のためにさまざまな薬剤を点滴するが、通常の腕の点滴では投入量に制限を受けるので、このカテーテルを使って大量に血管に薬剤を投入する。カテーテルを使用して再び血小板の輸血をする。この夜から腹痛と咳の症状がなくなってきた。夕食に流動食がでるが、食べられない。

 慈恵医大の先生は網走厚生病院での対応が完璧であったと言っていた。たった一日で、出来ることを全て実施していた。データや骨髄サンプルを送ってもらって、東京での対応もすばやくすることが出来たとの事。本当に網走厚生病院のK先生他、病棟の皆様には感謝したい。


6月26日(火)

 耳鼻科の検診。
 翌日から抗がん剤治療が始まることが決まったので無菌室を見学する。現在ベッドがあるこの病棟は準無菌室。フロア全体が無菌状態にされていて、出入り口は二重のドアによって管理されている。そのフロアの中に更に無菌室が存在する。だからこの無菌室は非常に無菌状態が優れている。

 無菌室は9室ありベッドを中心に冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、トイレ、洗面台、インターフォン、電話がある。見舞い客が来る廊下側は全面ガラスになっており、インターフォンで会話をすることができる。病気でなければホテル並の快適さである。廊下とは逆側に、医者と看護士だけが出入りすることが出来るドアがあり、人が出入りすると患者側からの風圧が強くなり、病棟からの空気が患者側に来ない様になっている。

 症状は、腹痛や咳は止まったが、食欲はなく、下痢をしている。


6月27日(水)治療1日目

 午前中、胸部レントゲンで肺に異常がないことを確認し、骨髄採取(マルク)を行い、午後から無菌室へ。

 マルクとは、骨髄の中の造血幹細胞を太い針で搾取して、顕微鏡で白血病細胞になりうる芽球があるかどうかを検査すること。麻酔をしても、かなり痛い。痛さも続く。

 抗がん剤キロサイドとダウノマイシンの投与が始まった。同時に吐き気止めを入れているが、吐き気で食事できない。頭痛、下痢で辛い

 今回の寛解導入治療は、キロサイドは7日間連続投与、ダウノマイシンは5日間投与。キロサイドの主な副作用は下痢。ダウノマイシンの主な副作用は強い吐き気だそうだ。


6月28日(木)治療2日目

 吐き気止めを投与しても効果が少ない。午前午後と2回の嘔吐。胃に何も入っていないので、余計苦しい。

 急性骨髄性白血病の分類が判明した。M分類はM2。染色体異常は8−21だそうだ(8番目と21番目の染色体が逆になってしまったとの事)。非常に一般的なもので症例も多い。M2は、化学療法で完治する可能性が高いとのこと。


6月29日(金)治療3日目

 強い吐き気止めを入れたが、水を飲むだけで嘔吐。薬も飲めない。体を動かしただけで気持ちが悪い。何もできずベッドで苦しんでいる。

 抗がん剤の副作用について
 抗がん剤というのは、人間の細胞の中で寿命が短い細胞だけを殺すものだそうだ。全ての血球細胞は寿命が短い。正常細胞も異常な白血病細胞も同様に寿命が短い。毛根細胞も寿命が短い。だから毛髪が抜ける。爪も弱くなる。粘膜をつくる細胞もダメージがある。内臓や皮膚も弱くなる。吐き気や下痢の症状がでる。それを防ぐために薬剤を投入する。薬剤の副作用のために薬剤を投入する。またその薬剤の副作用のために薬剤を投入する。毎日、多量の薬剤をカテーテルから、そして内服として投入するのが治療なのです。



6月30日(土)治療4日目

 嘔吐するので意識をぼんやりさせる薬を点滴。嘔吐はなくなったがむかつきはなくならない。意識がぼんやりしているので寝たり起きたりの状態。

 無菌室によって外部からの細菌は防御されているが、重要なのは自分の体についている細菌だそうだ。手洗い、うがい、体を清潔にする。衣服も頻繁に取り替えることが大切である。体に付着した細菌にとって、人体の温湿度は増殖に最高の環境だということ。


7月1日(日)治療5日目

 ダウノマイシンは今日で最後。3回目の血小板輸血。嘔吐も続いている。熱があり動くことも辛そうだ。


7月2日(月)治療6日目

 4回目の血小板輸血と2回目の赤血球輸血。38度近い熱。今までとは異なる抗生剤を投入。(抗生剤は72時間で変更しないと、効果がなくなるそうだ。)動くと嘔吐する。首のカテーテルの所がヒリヒリする。Y医師によると順調だそうだ。患者本人は、こんなに苦しんでいるのに順調なのだ。


7月3日(火)治療7日目

 夜38度になる。動くと嘔吐する。何もやる気分にない。テレビやラジオなど音が出るものも嫌だとのこと。


7月4日(水)治療8日目

 今日でキロサイドは終了。抗がん剤投与がやっと終わる。マルク、シャンプー。抗がん剤投与中に心臓を監視していたモニターをはずす。5回目の血小板輸血。白血球は600まで下がったそうだ(この値は1mm立方中の血球の数)。 健康な人の通常値は6000程度。

 夜中に幻覚をみたそうだ。熱の為か、赤血球が少ない為か。ICU症候群という閉鎖症みたいなものもあるということ。精神的に弱くなった場合、精神科の専門医に診てもらう患者もかなりいるそうだ。

 首のカテーテルから細菌が入ったかもしれないのでカテーテルを抜く。腕にカテーテルを挿入する。抗がん剤がなくなったので腕からの点滴でも問題ないようだ。この段階でも様々な薬剤を24時間点滴している。


7月5日(木)治療9日目

 3回目の赤血球輸血。新しい抗生剤。同じ抗生剤を投与し続けると薬剤効果が少なくなってしまうそうだ。嘔吐や下痢は続く。6月22日以来、初めて口から食物を入れる。(アイスクリーム一口)


7月6日(金)治療10日目

 口内炎が出来ている。食べたアイスクリームを全て嘔吐。夜、マドレーヌとジュースを少し飲む。

 治療中の食事は生食禁止。つまり、加熱して細菌を殺していない食事はできない。人間は白血球(好中球)があるから多少細菌がある食べ物も口に入れることが出来る。生野菜や御寿司、納豆、生菓子などは、好中球のお世話になっているのだ。


7月7日(土)治療11日目

 夜中に39度。何回も下痢。吐き気。最悪状態。吐き気止めを何回も投与。白血球は200まで下がる。お昼は落ち着いてきたのでゼリーを少し食べる。夜、マドレーヌとジョアをほんの少し食べる。


7月8日(日)治療12日目

 5回目の血小板輸血。熱は38度前後。熱が下がらないと吐き気止めを投与しても吐き気がとまらないそうだ。マドレーヌとゼリーを少し食べる。今日は嘔吐はない。


7月9日(月)治療13日目

 解熱剤と吐き気止めの投与タイミングを自分でコントロールできるようになったので高熱になることがなくなった。熱は37度前半で推移。ただ下痢は頻繁。肺炎防止のためレントゲン。(もちろん無菌室内で行う) 食事は朝昼晩とゼリーやマドレーヌ、アイスクリームを一口づつくらいなら食べられるようになった。


7月10日(火)治療14日目

 二種類の抗生剤のうち一つを変更。むかつきはあるが少しづつ食べる。


7月11日(水)治療15日目

 夜中に39度近くになる。解熱剤、吐き気止めを投与。昼間は37度台でうどんを3分の一くらい食べた。夜になって38.5度まで上がり食べ物を全て嘔吐した。白血球が100まで下がった。抗がん剤の副作用で髪が抜けてきた。抜けた髪が散らばるのでスカーフをかぶる。


7月12日(木)治療16日目

 朝、三分粥と魚を少し食べたが、全て嘔吐してしまう。昼、6回目の血小板輸血。夜、解熱剤が効いて楽になった。胆嚢炎の疑いから食事が禁止になる。点滴で栄養補給。


7月13日(金)治療17日目

 明け方、38.4度になり嘔吐。4回目の赤血球輸血。夜、吐き気止めが効かないので強い吐き気止めを投与。少し息苦しいが朝まで眠ることができた。胆嚢炎ではないことが専門医の診断で判明。また少しずつ食事を開始。


7月14日(土)治療18日目

 体調が回復してきて少しずつ食事も出来る。抗がん剤の副作用で胃腸の粘膜が減少する。粘膜を守る薬剤を投与しているが、吐き気、嘔吐、下痢、細菌の感染などさまざまな症状が出る。


7月15日(日)治療19日目

 今までで最高の体調。重湯、ケーキなどを食べることが出来るようになった。内服薬も飲める。


7月16日(月)治療20日目

 熱が38度を超えた。解熱剤を投与して抗生剤一つを変更。顔色が良くなってきた。


7月17日(火)治療21日目

 胸部レントゲン、7回目の血小板輸血。抗生剤は3種類になっている。初めて空腹感を感じる。元気になった証拠だ。


7月18日(水)治療22日目

 まだ吐き気止めを使わないとむかつきがとれないが、明らかに回復してきている。マルクを行う。


7月19日(木)治療23日目

 夜中に38度近くになったが、解熱剤を使わなくても下がる。夜になると熱が出てくるがむかつきが取れてきた。食事が出来るようになったので栄養の点滴は中止。


7月20日(金)治療24日目

 38度まで上がらなくなってきた。吐き気止めは1回のみ使用。


7月21日(土)治療25日目

 5回目の赤血球輸血。熱は37度台になったのに、むかつきが再び出る。栄養の点滴を止めたのに食事が出来ない。


7月22日(日)治療26日目

 吐き気止めを投与して、むかつきは減少。今日から5分粥。


7月23日(月)治療27日目

 胸部レントゲン撮影。肺炎のチェックは頻繁にやる。吐き気止めを使っても弱いむかつき感。腕のカテーテル点滴は左手から右手に。左手はもう挿入する箇所がない。


7月24日(火)治療28日目

 熱は37度近辺。まだ、夜中は、むかつきがきつくて吐き気止めを使う。でも昼間はむかつきがない。夜から全粥。


7月25日(水)治療29日目

 熱は一日中37度を若干下回っている。むかつきも少ない。100以下にまで落ちた白血球が、現在は900まで上昇。これからは、急激に回復してくる。入院当初、骨髄の56%もあった白血病細胞は、現在3.7%まで落ちた。


7月26日(木)治療30日目

 夕方、むかつきが出て、夕食があまり食べられない。


7月27日(金)治療31日目

 又、熱が37.7度まで上がる。今日はマルク。白血球は1500まで上がる。


7月28日(土)治療32日目

 37度を少し超えたくらい。むかつきで夕食食べられない。無菌室から出てシャワーを使うことができた。


7月29日(日)治療33日目

 37度を少し超えたくらい。むかつきで夕食は少しだけ。


7月30日(月)治療34日目

 37度前後、むかつきなし。白血球2000、好中球700、無菌室から出て病棟の個室に移動。窓から東京タワーが見える。ホテルの個室のようで広くて落ち着かない。

 このフロアは南向きに準無菌室の病棟があり、東京タワーが見える。夜になると東京タワーのイルミネーションが綺麗だ。病棟には女性用4人部屋が一室。男性用の4人部屋が2室(この病気は男性患者の方が多い)。個室が5室ある。北側には面会用の廊下を挟み、無菌室が9室並んでいる。


7月31日(火)治療35日目

 点滴のカテーテルをはずす。薬剤は全て内服薬になる。CTスキャン検査を行う。

 入院費用について
 この病気は全て健康保険で支払うことができる(食事代は別)。病棟の個室も無菌室も。差額ベッド代というものはない。特に無菌室に入ると高額な費用(1日10万円程度)が発生するが、患者の負担は極めて少ない。国民健康保険の場合、2007年4月からは、事前に申請をしておけば、3割負担の必要もない。以前は3割負担をして確定申告時に高額医療費の払い戻しを受けるという制度だったが、その必要もなくなった。私の場合は2006年は無収入なので患者負担の限度額も一番低いCクラス。申し訳ないほど少ない金額ですみます。



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